10月4日(火)から、旧飯能織…
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はたらく
飯能の産業としてよく挙げられるのは林業ですが、実はもう一つありました。それは絹織物を中心とした「繊維産業」です。
江戸時代後期につくられた織物は「飯能絹」「飯能大島紬」と名前を冠するほどの人気ぶりでした。
そして明治に入っても織物の活況は続き、ユネスコ世界遺産に登録された富岡製糸場から本庄~秩父~飯能~八王子~横浜のルートは「日本のシルクロード」と呼ばれるほどの一大産業に。
また、レースの製造に関しては埼玉県で全国の約6割を占めていた時期もあったのだとか。確かに、私が小学生だった30年前はまだ通学路に桑畑があったり、レース工場が残っていた記憶があります。
ところが、長い歴史を誇る繊維業は昭和46年を境に落ち込んでしまいます。当時300軒以上あった繊維関連の会社は、今では5軒に満たないくらいになってしまったのです。
そんな逆境にあっても、自社の特徴を最大限に活かして繊維業を続けているのが創業150年以上の「株式会社マルナカ」さん。その秘密に迫るべくお話を伺ってきました。
自分たちにしかできないことを追い求めて
まず、今年85歳になられる会長・中里昌平さんにマルナカさんの歴史をお話いただきました。
「布の起源はエジプトカフラー王のピラミッドから…」
おっと紀元前スタートですか。私の取材ノートが足りるか心配になってきました。
その後、7世紀頃から飯能に織物文化が伝わったことから現代まで、とてもわかりやすくご説明いただきました(この記事の冒頭も会長のお話をもとに書いております)。
そして、話は自社についての内容へ。
繊維業が最盛期の頃は手作業がメインで、マルナカさんにも200人もの作業員がいたのだそう。時代が移り変わるとともに作業が機械化され、さまざまな自動織機が生まれました。
数ある機械の中でマルナカさんが一目惚れしたのがドイツで見つけた「ドルニエ」という織機でした。ドルニエはただ速く織れるのではなく「布とはどういうものか」をちゃんと考え、糸を引っ張りすぎず上質な仕上がりになるよう設計されていたのです。
また、扱える糸の種類も豊富で、コンピュータに入力すれば多彩な柄が織れるのも大きな魅力でした。マルナカさんは当時から婦人服で使う布を製造していたので、ドルニエは理想的な織機だったのです。ドイツでの出会いから10年後、ついに念願のドルニエを導入します。
婦人服用のテキスタイルという専門性、それに適した機械の導入。こうしてマルナカさんは「自分たちにしかできないこと」を生み出していったのです。
デザイナーの想いを、技術でカタチに変える
現在のマルナカさんについては、社長の中里明宏さんにお聞きしました。
「今もファッション業界へテキスタイルを提供しています。特にデザイナーさんからのご依頼も多いです」
デザイナーが発想したアイデアをカタチにするのはとても難しい仕事です。中里社長は「頭の中のイメージ」という漠然としたものをていねいにヒアリングし、蓄積した技術でプロダクトへ変換しているのです。
その両方を兼ね備えている中里社長はデザイナーからの信頼が厚く、パートナーとして指名するデザイナーも多いのだそう。決して表舞台に立つことはないけれど、マルナカはもはやファッション業界に欠かせない存在となっているのです。
最後に、今の仕事で一番楽しい瞬間を聞いてみました。
「やはりファッションショーなどに、自分たちがつくった布が出るとうれしいです。一枚の布で世界が変わっているのを感じられるんです」
確かな技術をデザインの力と共に全世界に発信する。これこそが伝統産業を続けていくために必要なことなのかもしれません。
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記事を書いた人:
赤井 恒平
飯能生まれ。AKAI FactoryやBookmarkを手がけた、飯能リノベーションの第一人者。地域や人をつなぐ「橋をかける仕事」をしています。
- 飯能市キーマン
- AKAI Factory 代表
- 埼玉県「まちなかリノベ賞」最優秀賞(R2年度)
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